2013/07/25

福島からの手紙

沢春利様

初めてお便りします。私は、石橋来未の姉・石橋梨花です。

大地震に見舞われてから一ヶ月たちましたが、両親(父・俊作、母・ふみ子)、そして妹・来未が、いわき市久ノ浜の家とともに地震後の津波に飲み込まれ、現在も行方不明の状態が続いています。

と申しますのは、あの日あの時間に、妹・来未が運悪く久ノ浜に帰ってきたことを、会社の友達である吉田沙希さんから聞いた結果分かったことなのですが。

来未の会社の上司の方や会社の友達の吉田沙希さんから、安否確認の電話が入り、連絡しなければと思いつつ、今回ようやく来未の会社に連絡し、吉田沙希さんから沢さんのことをお聞きして、こうして連絡させてもらうことになりました。

妹・来未からは、沢さんとお付き合いしているということは、帰省した折に聞いてはいましたが、詳細は知りませんでした。今回、来未の友達の吉田沙希さんと連絡を取る中で、沢さんが上海にいらっしゃることを知ったのです。

両親が、転居する前の会津若松に住んでいれば、今回このようなことにはならなかったと、悔やまれてなりません。

幸か不幸か、私だけは伯父が始めた工務店の事務員としてあの地震の時郡山にいたため、こうして沢さんにもお手紙を書くことが出来たのです。伯父夫婦が病気で亡くなったため、私たちの両親は会津若松の家を売却して父の生家に転居することになったので。

伯父が病気で亡くなった後も工務店は、役員によって受け継がれ、私は会社から徒歩10分くらいのところにあるアパートから通っていました。

現在、久ノ浜の家があった辺りは、一部の建物の残骸があるのみばかりでなく、比較的被害の少なかった周辺住民も放射能汚染のため残った家から自主避難しているような状況です。

両親や妹が、どこでどうしているのか、遺体も見つからない現在、広大な海を相手に途方に暮れるばかりです。
私は、これからどうしたら良いのか。生活もありますので、会社にも行き始めたのですが、定まりのない不安と戸惑いの日々を送っています。

以上のようなまとまりのない手紙になってしまいましたが、とにかく、現状をお知らせしようとお手紙をさせていただいた次第です。

・・・

To Be Continued

Sponsored Links
2013/07/15

福島からの手紙

日本の東北地方太平洋沖で起きた巨大地震のことは、上海で働く春利の心に痛みと不安を与えたが、その後、吉田沙希からも宮里上海支店長や日本の会社関係者からも来未についての確かな消息はまったくなかった。

休暇を取って来未が行ったであろういわき市を訪れるにも、電車や道路事情が把握できなかったし、福島原発の事故による放射能の影響で近くへ行くことが出来るかどうかも分からないまま時間が過ぎていった。

震災後、一か月余りがたった。その日仕事を終えた春利は、いつもの地下鉄2号線、世紀大道駅から乗車し、アパートのある中山公園駅で下車した。

春利は、家で夕食を作ろうか食べていこうか車中で迷ったが、中山公園で下車した時、徒歩で数分のところにある和風カレー屋に寄ることにした。夜は10時までやっていたし、日本語OKの店で入りやすかった。25元とお手頃で、アスパラガス、オクラ、ベビーコーン、ニンジンなどの具が春利の気持ちを和ませてくれた。

夕食をすませた春利が借りている上海市長寧区にある公寓に着いた時、郵便受けに一通の白い封筒がエアメイルで届いていた。

「沢春利」宛で、差出人は、「石橋梨花」だった。石橋梨花、という名を眼で追い、誰だろうと首をひねった。
春利の知っている石橋は、来未だけだったが、梨花という漢字名は初めてだった。しかし、福島県郡山市という住所を確認して、来未の姉に違いない、と思った。

エレベーターのボタン15を押す春利の指先がふるえた。


To Be Continued

Sponsored Links
2013/07/09

ノラ猫と桜

「彼女、途中までいた、あれ誰だっけ?」

復学後、桑田が施設を紹介したのは、一年上の先輩と後輩の2人だったが、後輩の一人が話題の彼女だった。

「あれに関わったのは、彼だよ。すぐひっかけるからな」

同じ寮にいて信頼もしていた先輩から言われたことで、桑田の傷口は余計痛んだ。言う方にとっては話題を盛り上げるくらいのつもりだったかもしれないが、桑田は今までの彼への信頼感が損なわれた。

その時は精いっぱい平静を装っていたが、それ以上話が展開しないことを願った。しかし、話はさらに続いていた。

富田希海(のぞみ)という名の彼女に桑田が初めて声をかけたのは、その日授業のない桑田が古本屋へ行った帰りで、バス停からグラウンドを抜けて寮へ向かっている時だった。希海は授業を終え、帰宅するためバス停へ向かっていた。

復学した桑田は、富田希海も休学して復学したと聞き、ちょっと話しかけてみたかった。その後、希海から寮宛に手紙が来て、2人は喫茶店で話すようになった。学年が進み、二人はセックスにまで及んだ。希海は一緒にやっていきたいと言い、桑田に両親にあってほしいと言った。

しかし、その間希海の生い立ちを打ち明けられ、桑田には希海のような環境で育った女性とやっていくことはとても無理だと思った。彼女には兄が一人いたが、兄妹とも正妻の子ではないことを知った。

桑田は結婚は出来ないと言った。当時、まだ結婚なんて本気で考えてもいなかった。
桑田は将来牧師になるという気持ちは薄れていたが、希海もなる気はないと言った。折しも神学大学でも学生運動が繰り広げられていた。教室内に椅子が積み上げられ、授業が出来なくなっていた。

やがて、富田希海の姿は学内から消えていった。

ぶるんと首を振り、桑田はベンチから立ち上がった。思い出したくない心の傷だった。

中央広場を引き返し、サツキの生垣がつづいているコーナーまで行った時、一匹のトラ猫の姿があった。
桑田が、トラちゃん! と声をかけると、桑田を見てしっかりと応えた。ものおじしない様子だが、飼い猫ではないと直感した。誰か餌をあげているに違いない。人の気配に振り向くと、スポーツウェア姿の若い女性が向こうから走って来た。桜の花が咲いている。


To Be Continued

Sponsored Links
2013/07/07

ノラ猫と桜

学校を辞めようという思いは春休みに入る前に、桑田の中で一気に増幅して行った。学生課の教授に相談し、すぐ上の兄にも話しに行った。

大学を卒業してからだったら他大学へ編入も出来るからと何人かの先輩に言われた。先のことは分からないが、とにかく一年休学して考えることにした。

高卒でストレートに神学大学に入学したのは、桑田の学年では十数人のうち4人だけだった。寮外からの通学生には結婚している者もいた。会社員を経験している者、浪人生などで、30歳前後の者もいた。

神のことを意識しての授業と礼拝と日曜日の教会、そして毎週祈祷会もある寮生活。主に日曜だけ教会に通っていた高校時代後半とは違っていた。別世界とも言えた。英書購読の講師と馬が合わなかった上に不可の評価をもらったことでつづける気力を失ってしまった。

郷里の信州に帰りしばらく精密工場でバイトをしたが、心の不安を抱えていた桑田は、教会の信徒の紹介で、キリスト教主義を標榜している千葉の身心障害者の施設へ行くことになった。給与はなかったが、寝泊りする部屋が与えられ、食事も、寮生と呼ばれる入所者と同じものをいただくことが出来た。


桑田の仕事は、厨房での寮生たちの食事の用意の手伝いと食後の食器洗い。風呂場の清掃と施設周辺の清掃、男子寮生の入浴介助などだったが、食堂を利用しての聖書集会での講話も依頼された。だが、神学大学での日々と違い、身体を動かすことが多かったことと他の職員やボランティアで訪れる人々との会話が桑田の心を癒してくれた。

砂田サト子と初めて出会ったのも、厨房での食器洗いの時だったのだが、2月の初旬にかつての神学部の仲間に会った時、仲間たちの一人が、その施設での話から、桑田が一番思い出したくない女性のことに話題が飛んだことだった。


To Be Continued

Sponsored Links
2013/07/06

ノラ猫と桜

雲の変化を眺めていると、桑田は2月の初旬にかつての神学部の仲間に会ったことが思い出された。

そのときのことは、思い出さないよう意識的に抑え込んでいたのだが、ある周期でふと浮かんで来ては桑田を悩ませた。

桑田が神学大学の神学部に入学した時は十数名だったが、学期の終わりには数名の顔が見えなくなった。牧師になるという目的で入学したものの、学費と生活費を稼ぐのにアルバイトに出かけなければならず、授業に出席できない者もいた。実際入学してみて、進路に疑問を感じて辞めた者も。

学校を出れば仕事に就き、比較的良い収入を手にすることが出来るという期待があれば、親も多少無理しても援助してくれるかもしれない。しかし、そうしたことが叶わなくても出してくれる場合は、親がクリスチャンの場合だろう。文部省認可の神学大学だから、必ずしも牧師にならなくてもいいのかもしれないが、多くの信徒の援助によって成り立ってもいる側面もあったから、受け入れ側は、それまでの学校での成績もよく卒業後は牧師になってくれる人を合格させたかったに違いない。

大学のすぐそばの寮に入った桑田は、わずかな親の仕送りと育英会の奨学金でぎりぎりの生活を送っていた。少人数での語学の授業は大変だった。予習して行かないと授業が進まないから、明け方まで頑張っている日も多かった。ドイツ語はなんとかなったが、二つある英語の授業の一つでつまづいた。講師との相性が悪かった。講師は他の私立大学の教授でクリスチャンではなかった。教授にしてみると鍛えてやろう、という意気込みだったに違いない。妥協は許さなかった。

「こんなものも訳せないで、日本のキリスト教を担っていけると思うのか。大辞典でちゃんと調べたのか? これには別の意味があるのだ。・・まったく常識知らずだ、神学生は新聞も読まないと聞くが、こんな所はないぞ・・」教授は部厚い辞書を机に叩きつけた。

以来、桑田は指名されると、「分かりません」と言った。

「なにい・・俺の質問に応えられないというのか!」教授はいきなり立ち上がると、バタンとドアを閉めて出て行ってしまった。桑田はしばらくして教授控室に謝りに行った。

その科目の学期末評価は、不可だった。高校時代英語が得意の方だった桑田にとっては、予想外のことだった。


To Be Continued

Sponsored Links
2013/07/04

ノラ猫と桜

おばさんは、猫のいる次の場所へ自転車をこいでいった。

桑田は、横浜市で一番大きいと聞く新横浜公園へ行ってみようと思った。花粉症はまだ続いていたが、その辺りは比較的海よりのためか風向きのせいかスギ花粉が飛散していないらしく、マスクを持参していたが掛けないでもなんともなかった。

猫が多く捨てられる駅前緑地から新横浜公園へは舗装された広い橋を渡ればすぐだった。

日産スタジアムの周辺が新横浜公園と呼ばれていたが、鶴見川の遊水地を利用している低地だったので、石段をいくつも降りていくのが面倒で、いつも上から眺めるだけだったが、桜の花も見えるその辺りへ足を延ばしてみようと思った。

東日本大震災のことを思うと華やかな桜の花は気が引けるような気持ちになったが、それが別の行動へ駆り立てているのかもしれなかった。

石段を降り切ると、「鶴見川多目的遊水地・新横浜公園」という案内ボードが立っていた。
スケボー広場、テニスコート、サッカー、野球、投てき練習場、ドッグラン、草地広場・・

周囲が緑の芝生で被われた広いフィールドが眼前に広がった。歩道の脇の花壇にはサクラソウが一面に咲いている。

中央広場の前方には長い陸橋があり、移動する車が目に留まった。桜の木に目が行く。後ろでガラガラと音がしたと思うと、スケボーをこぐ若者が桑田を追い抜いて行った。桜とスケボーか・・。

桑田は、きれいに舗装された広場を進み、第一レストハウス横の背もたれのないベンチに掛けた。
ごろりと横になり、今度は仰向けに寝た。青い空のあちこちに小さな雲の塊があり、そうしている間にゆっくりと形を変えていく。


To Be Continued

Sponsored Links